いつぶりだろう…ちょろっと歩いた里山1人歩きのこと。2018年5月20日(日)の記録

いつぶりだろう。

先月に訪れた時は登山口から頂上までのピストン。その日でさえ、おそらく2,3年ぶりだった。

道祖信仰の名残を残すこの里山の頂は登山口から20分程度しかかからない。本当に小さい山だ。その小さな山の岩の頂を踏み、次のピークへ向かったのだが、あろうことか道中の分岐を間違えて進んでしまった。そのことに気がつき登山道を戻って分岐を正しく曲がり直したところで、この里山に訪れたのが「いつぶり」であるのかについて考えはじめた。

いつぶりだろう…。

最後に歩いたとき、登山道には雪があった。1つ目のピークである男抱山の頂から見渡した里山らしからぬ景色は今も鮮明に覚えているし、その頂からは次に目指すピークやいくつかの大岩を確認できのたのだが、この日、それを確認することはできなかった。

それもそのはずで山全体が新緑に埋もれてしまっているこの季節には見渡した先の何かを確認したくてもできるわけがないのだ。

そして、その確認できたはずの景色も今となっては見たかもしれない不確かな記憶と言わざるえなかった。確かな記憶となると季節が冬で明らかに年明け後のことであることくらいだ。そんなおぼろな記憶をもとに月日をさかのぼり「いつぶり」なのかと指を折りながら数えた。

されど、何回指を折っても4本目を折ったあたりで怪しくなり、ついぞ「いつ」が判明することはなかった。

そもそも数える始点を今日とするにしても今冬とするにしても終点の「いつ」を導き出すためには明確な中間点を探さなくてならなかった。そのために今年、昨年、一昨年…と、それぞれの冬に訪れた場所や年ごとの出来事を整理する必要があり、その作業をしながら登山道を歩いていたのだが、そのうちにそれぞれの出来事は入り乱れどんどん不確な記憶を形成していった。

去年や一昨年くらいの記憶は確かなのだが、それ以前となると…どうも怪しくなってしまう。

正しい記憶を求めれば求めるほど曖昧になる。そんな作業に終わりが見えなくなり「いつ」について考えることに嫌気が差したところで、松島と名付けられた大岩の見晴らし台にたどり着いた。

松島や。松島や。松島や。

松尾芭蕉のアレだ。

富士山が望める峠や見晴らし台に「富士見峠」や「富士見台」と名付けるように、小舟のようにポツリと顔を出す大岩のそばに松が生えたら「松島」と名付ける。それが日本人の心というものなのだろうか…。

松島や。松島や。松島や。

三度唱えたところで、鼻先で吹いた。

ふと、手頃な腰掛け岩を見つけたので、そこに腰をおろしてみたものの尻をどこにおいても納まらない、そんな岩だった。仕方がないので岩の上にしゃがみ込んで松島から辺りを見渡した。

見下ろした先には、ここ20年ほど世話になっている街の一角が広がっていて、人の住む家々の屋根が確認できた。さらにその先には…。人の世界のいろいろなものが、ただぼんやり居並んでいるのが見えた。

いつぶりだろう…。

ふと、先ほどまでの考え事が頭に浮かんだが、考えることを固辞して帰路に着いた。

終わりに

僕は1人でハイキングをしている。誰かと連れだって歩くことは、ほぼない。それを知っている友人や同僚からは「1人で楽しい?」などの質問を受けることがまぁまぁある。そんなときの返事は「楽しいよ」であるのだけど、確かにワイワイガヤガヤとはいかない。楽しげかと言うとそうでもないだろう。

相づちを打つことも打たれることもない言葉は一人言だ。

だけど、まるで会話をするように思案することは次から次へと溢れてくる。もちろん、きつい登りに向き合ったときの沈黙もある。きつい登りを登りきったときの安堵と爽快感も変わらない。惜しむらく感じるとしたら、共有するということがないこだろうか。しかしながら、1人というのも悪くない。そう思う。

まぁ、悪くないと言うくらいだから1人が嫌なときも少しくらいはあるのだけど。

まぁ、それも悪くない。

そう思うわけだ。

さて、この里山の詳細などは暇を見て作成しようと思います。

それでは、また。