
スーパーの魚介類売り場に立ち寄り「ホヤ」はないかと物色していると、ブラックタイガーが目に留まった。俺はブラックタイガーを見るとときどき思い出すことがあり、先日もそれを前にしてふと思い出した。
今となっては魚介類をほうばる俺だが、子供の頃、刺身を除いた魚介類をまったく食べることができなかった。煮ても焼いても鼻につくあの独特の香りを嗅ぐと吐き気がして仕方がなかった。
その当時、週に一度しか両親と食事をすることがなかった我が家ではあったが、その一家団欒の時間は俺にとって苦痛以外のなにものでもなかった。食べ物の好き嫌いの多い俺を父親は許さず、まず嫌いな物を食べてからでないと他のものを食べさせてくれることはなかったからだ。
ある日、まだ小さかった妹と何でも良く食べた姉そして両親。彼らが楽しそうに焼肉を頬張る食卓から少し離れた場所に俺は正座していた。俺の前には段ボールの箱の上に置かれた皿があり。そこにはブラックタイガーと黒々とした椎茸そしてニンジンが盛られていた。
それらを俺は頑として口にしなかった。
いや、椎茸や人参はなんとか口にできる。けれどエビだけは口にできなかった。
焼けたエビの甲羅とその身や脳みそから沸き立つ香りはもっとも苦手ものであり、口に入れた瞬間から「異物!異物!」と警告を発する胃袋が口外にまで飛び出さんばかりの吐き気をもよおすのだ。
もしも意を決してエビを食ったところで俺は便所へ駆け込みそれを吐き出すし、その醜態を目撃した父親から鉄槌をいただくことは目に見えていた。まして、その晩はすでに一度吐き出し拳骨をいただいてしまっており、「食え!飲み込め!」と口にする父親にしたがったらなら俺はまた拳骨をちょうだいしなくてはならないのだ。
俺は拳骨を頂戴した側頭部の痛みに耐えつつ悔しさからボロボロと涙をこぼし、そして皿をじっと睨みながら酒に酔った父親が眠りにつくのをじっと待った。
父が寝れば母が肉を食わせてくれる。
その思いを胸に時が過ぎゆくのをじっと待ち続けた。
けれど、その晩、俺は肉を口にすることはなかった。
食事も終盤になり姉が妹をつれ子供部屋にいき。いつまでも酒を飲んでいた父親が寝息をたてた頃、母親が皿に盛った肉を俺に食べさせようとしたその時、眠り込んだはずの父親がむくりと体を起こし何やら怒り狂い怒鳴り散らしたからだった。
とっさに俺は痺れた足でつまずき転びながらも逃げ出した。
父親が何を口にし何に怒り狂っているのか分からないが、さらなる拳骨の被害を恐れた俺は茶の間を飛び出し子供部屋にしかれた寝床にもぐりこんだ。そうしなが酒に酔った父親が子供部屋までやってきやしないかという恐れと例えようのない憤りに身を震わせながら布団の中で固く丸くなった。
耐え難い異臭を放つ食い物の前で正座をし、ときどき俺に気を使いながらも楽しそうに食事をする家族を尻目に食い物を睨み付けるしかできなかった自分が情けなくもあったが、何より自分をそんなにまで惨めにした父親が心のそこから恨めしかった。
そのときの仕打ちに「なぜ」とか「どうして」などという問いを頭に浮かべることもなく、ただただ体を強張らせてぶるぶるとしているだけだった。
俺が茶の間を出て間もなくすると父親と母親の口論をする声が聞こえてきた。それはフィナーレを飾るテーブルをひっくり返す音が鳴るまで繰り返され、最後は「出ていけ」という実に昭和的血潮を感じる言葉の怒声で幕をおろした。
その後、戦を終えた母親が子供部屋にやってきて我々は身を寄せあって眠りについたのだった。
翌朝、目を覚ました俺は寝ている母親と妹を起こさないよう、そっと布団から出て昨夜の惨劇の跡を確認すべく茶の間にいった。
そこには、ひっくり返った炬燵テーブルや酒でびたびたの畳、割れたグラス、父親の箸、漬物の皿に散らばったキュウリと黒ずんだナスといったものが散乱していた。そして、その残骸の向こうで寝息を立てる父親が確認できた。
それらを確認すると「目に余るほどではないな」と俺は思った。
そして、先に起きだしていた姉と台所で朝飯を立ち食いし、ランドセルを持って家を出たのであった。
ブラックタイガーを前にすると、俺は、その晩の悔しさとどうしようもない悲しさが胸にこみあげるのだ。
ちなみに、誤解がないように断っておくと両親はよく働く勤勉な人たちだ。特に父親は仕事中に吐血して救急車で運ばれるまで働く我慢強い人だ。本当に真面目な人物だ。ただ誰でも欠点があるように父にも欠点があったし当時は父親も若く何かいつもイライラしていた。その理由を俺は大人につれ徐々に知っていくのだが、理由はともあれ幼少の頃に受けた無慈悲は無慈悲だろうと俺は思っている。


